「ないこと」によって、「あること」を語る。
「私は傲慢だった。
自分の人生を生きることだけで必死だった。流れていく時間の残酷さを知らなかった。
目を向けていたのは、自分の中を流れ、渦を巻く時間についてだけであり、時間がまるで加速度がついたかのように、老いゆく者の中を流れていることからは、半ば意識的に目を背けていた。見ないようにし、考えないようにしてきた。
そして、気がつくと、父は何も話せなくなっていたのだった。
文章にして書くことも叶わなくなっていたのだった。私が生まれて初めて・・・・・恥ずかしいことに、五十を過ぎてからやっと・・・・・・・自分の父親に真剣なまなざしを向け、見つめ、その人生を自分なりに解釈しようとし始めた時、すでにその人は車椅子の中でうつむき、沈黙していたのだった。
(「沈黙のひと」 小池真理子 より引用)
伝えること=コミュニケーションの仕事をしていると、何を、どう伝えたら効果的かを考えることがある。
今回は、「ないこと」によって、「あること」を伝えること、つまり、「不在」によって「存在の大きさ」を知ることを考えてみたい。
有名な米国の広告キャンペーンの事例に、「Got Milk?」というものがある。これは、アメリカの牛乳普及協会のような団体が牛乳の消費量を増加させるためのキャンペーンだった。
通常は、カルシウムが豊富ですとか、健康にいいです、ということを伝えることが多いのだが、このケースでは、そうしたことではなく、「ミルクが必要なとき」はシリアルやビスケット等を食べたときであり、その状況下では、ミルクはなくてはならないものですよね、ということをコミュニケーションしたのだ。
このキャンペーンでは、事前の調査の仕方自体もユニークなものだった。
ミルクの有難さを聴取するために、ミルクを飲む人が一定期間ミルクの飲用を禁止する「飢餓調査」というものを試みた。それによって、ミルクが必要な時や状況を導き出したのだ。
よく親の有難さが分るのは、親が亡くなった後からだと言われるがそういうことである。
「不在」によって、その価値が鮮明化するのである。
失くした後に分るものや、ないことによって分るものがある。
以下のようなクイズがあったことをふいに思い出した。
A B C D F G H I J K M N
P Q R S T U W X Y Z
ここにはないものが、あるか?
のYirgacheffe,Ethiopia CHELELECTUを飲みながら。
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